水戸家の付家老の地、飯能を散策 歴史ツーリング
2009年12月3日(木) 埼玉新聞を抜粋編集
「第7回比企・入間歴史ツーリング」では、「水戸黄門の生みの親」とされる水戸家の付家老(つけがろう)中山信吉(のぶよし)の墓を飯能に訪ねた。
付家老は、徳川家康が自らの側近5人を御三家の中枢に就けたことから始まった。幕末まで続いたが、飯能の中山氏は古来・高麗氏を祖とした家柄で、信吉は小姓として家康に仕えた。家康の十一男「御三家」の一つとなった水戸徳川家の藩祖水戸頼房(よりふさ)の付家老となった信吉は、家光から後継選びを命じられ、頼房の子供たちと面会、6歳の次男・長丸(光圀)の聡明さに感服し、後継に推挙した。後の名君・水戸黄門誕生の逸話だ。
中山氏は、丹党(血族で結ばれた武士団)の高麗五郎経家を祖とする。
飯能の智観寺に眠る関東随一の大きさの中山信吉の墓所を訪問。智観寺に墓参りに来た茨城県高萩市の草間吉夫市長と境内で、偶然に鉢合わせした。
水戸家の地元茨城から現在でも付家老に墓参りに来たことを知って一同びっくり。草間市長は「尾張の成瀬家や紀伊の安藤家など、付家老の5家由来の地から5市長が集まった徳川御三家付家老サミットを実施しました。御三家の家老5家由来の5市では、大規模災害応援の協定も結びました」と話した。
また、幕末、上野・寛永寺の彰義隊から分かれた振武軍が、中山氏由来の飯能で官軍と衝突した「飯能戦争」で、振武軍本営となった能仁寺も訪ね、往時をしのんだ。