2008年8月29日金曜日

農山漁村の郷土料理百選 埼玉

農山漁村の郷土料理百選
埼玉の人気郷土料理30種

若林氏が無投票初当選 東秩父村長選

 2008年8月27日(水)埼玉新聞を抜粋編集

 秩父郡東秩父村長選は、無投票で前副村長の若林全(あきら)氏(61)=農林業=の初当選が決まった。

 若林氏は礒田博安村長の後継者として準備を進め、合併推進、子育て支援充実などを公約に掲げた。

2008年8月27日水曜日

「小松菜うどん」商品化 八潮

 2008年8月26日(火)埼玉新聞を抜粋編集

 八潮特産の小松菜を活用しようと、県立八潮南高校の生徒八人が、小松菜を生地に練り込んだ「小松菜うどん」を地元製めん会社に提案。同社の製めん技能士らの協力で商品化にこぎつけ、今月中旬に直営店で期間限定で販売された。小麦粉も埼玉県産を使用した。

2008年8月25日月曜日

市民の医療ネットワークさいたま

市民の医療ネットワークさいたま
身近な医療情報の交換

日本五大名飯「忠七めし」 小川町

「忠七めし」は、ご飯にさらしネギ、わさび、ゆずを乗せ、熱々のつゆをかける高級お茶漬け。
日本五大名飯のひとつ

名飯「忠七めし」の由来

2008年8月22日金曜日

高麗神社とは 日高

716年関東地方に住んでいた高句麗人約1800人が日高市のあたりに移され、
高麗(こま)郡が創設されました。
高句麗人は優遇され、高度な技術、文化思想をもたらしました。

高麗神社は若光王を祭ったものです。

高句麗建郡1300年にあたる2016年にはさまざまな行事が催されます。

高麗神社公式ページ
高麗神社ウィキペディア

埼玉県内設備投資動向調査(20年7月中旬)

【PDF 14p】
埼玉県内設備投資動向調査(20年7月中旬)
2008年度に設備投資を計画している企業は、53%で大きく減少した。
2004年度2007年度は、60%前後であった。

2008年8月19日火曜日

テンプスタッフ、川越に研究開発職の拠点

ニュースリリース
人材派遣大手のテンプスタッフは、川越に研究開発職の拠点を設ける。
理系の大学を卒業した人材で、退職した研究者らに働きかける。

ロック・バンド「鶴」デビュー 鶴ヶ島

 鶴 アフロ・ヘアーで目玉おやじとコラボ!? 
2008/07/08 VIBE-NET.COM ニュースを抜粋編集

ロック・バンドの鶴は、鶴ヶ島市出身の中学校の同級生3人から成る。
アフロ・ヘアーがトレード・マーク。
バンドの名前はその出身地から取ったもので、今年3/19にワーナーミュージック・ジャパンより「恋のゴング」でメジャー・デビューを果たした。

2008年8月18日月曜日

比企郷土検定実施 9月6日

比企郷土検定

比企郷土検定模擬試験例会

比企青年会議所が実施

埼玉県レッドデータブック

埼玉県レッドデータブック2008動物編
絶滅のおそれのある動物は約800種

改訂・埼玉県レッドデータブック2005植物編
絶滅のおそれのある植物は約1000種

【cf.】
埼玉県環境科学国際センター

2008年8月16日土曜日

ときがわ町の特産品

ときがわ町の特産品
原木キノコ のらぼう菜 ときがわ茶 大附みかん 埼玉青なす

2008年8月10日日曜日

黒山三滝 越生町

黒山三滝荒川百選 

介護用エプロン商品化 <熊谷、川越

 2008年8月9日(土) 埼玉新聞を抜粋編集

  県内の介護現場で働くスタッフが考案し、業者と協力して特許を取った「介護用エプロン」と「床ずれ防止マット」が商品化された。

 熊谷市の老人福祉施設理事長の中村洋子さんが、日常の介護の悩みや工夫の中からアイデアを提供。川越市の包装資材業「ダイトー」が商品化した。介護用エプロンは、ポリエチレン製で汚れても水洗いができて繰り返し使えるのが特徴。形態はシンプルだが、縁があって汚れがたまりやすかった従来の製品に比べ、衛生的で使いやすいという。

 床ずれ防止マットも表面はビニール製で、汚れても洗える。中身は特許を獲得した水性樹脂の特殊な成分で、水を加えることでゲル状になる。温めたり、冷やしたりできるのが特徴。既成のマットは、ほぼ布製で高価なものが多く、肌触りはいいものの汚れたら使い物にならなくなってしまうという。

2008年8月7日木曜日

県内設備投資22.5%大幅増の見通し ホンダ効果

 2008年8月6日(水) 埼玉新聞を抜粋編集

 二〇〇八年度設備投資計画額は全産業で四千五十三億円、前年度実績比22・5%増と増加に転じる見通し。ホンダなど自動車メーカーの工場新設などにより輸送用機械が前年度比85・6%増と大幅増となり、全体を押し上げた。

 製造業の投資計画額は千七百七億円、前年度実績比43・4%増。金属製品が前年度の二・一倍となるほか、一般機械が42・4%増、化学が38・9%増、電気機械が21・0%増といずれも増加。一方で、食品は飲料の能力増強投資が完了する影響で64・6%減となる。

 非製造業の投資計画額は二千三百四十六億円、前年度実績比10・8%増。物流関連投資により運輸が15・2%増、リースが12・7%増となるほか、サービスが二・四倍に増加することから、全体で四年連続の増加となる。大型のショッピングセンター投資の一巡により不動産は13・2%減少する。

小川町の写真

小川町の写真 JAPAN-GEOGRAPHIC.TV

川島町の写真

川島町の写真JAPAN-GEOGRAPHIC.TV

2008年8月5日火曜日

川越西郵便局がコンビニ経営

2008年08月03日 usfl.comを抜粋編集

 川越西郵便局はローソンとフランチャイズ(FC)契約を結んだ。郵便局が物品販売に乗りだすのは初めて。

2008年8月4日月曜日

舟山車と花火の競演 寄居水天宮祭

 2008年8月3日(日)埼玉新聞

 「関東一の水祭り」と呼ばれる大里郡寄居町の玉淀水天宮の祭礼「玉淀水天宮祭」が二日、同町の玉淀河原などで行われた。鉢形城跡の下を流れる荒川の舟山車と、夜空を彩る花火が競演を繰り広げた。

 この水天宮は、玉淀を開発した玉淀保勝会(町観光協会の前身)の有志が荒川下流に地元の漁師が祭っていた水神の石宮を見つけ、同地に祭ったのが始まり。一九三一(昭和六)年から同祭の花火大会が開催されている。

 この日は午前十時から水天宮で祭典などを行った。夕方、水天宮を出発した神輿(みこし)が河原の仮宮に到着すると、祭りのムードは盛り上がった。花飾りを付けた本町、中町、栄町、武町、茅町の五隻の舟山車が、それぞれ五百個近くのぼんぼりやちょうちんに明かりがともされ、お囃子(はやし)の音を響かせながら川面を行き交った。

 午後七時からは花火大会。スターマインや仕掛け花火など約五千発の花火が打ち上げられた。見物客らは花火の光と音、舟山車が織りなす夢幻のひとときに酔いしれた。

2008年8月2日土曜日

旧大澤家住宅を後世に <富士見

 2008年7月29日(火)、埼玉新聞を抜粋編集

 富士見市下南畑の難波田城公園内にある市指定有形文化財の旧大澤家住宅は建築当時の名主の生活の様子を知ることができる貴重な建造物として広く一般に公開されている。

 「市に寄託したことで文化財を壊さずに残せたことをありがたく思う」と話すのは、実際に近年までこの建物に住んでいた大澤誠さん(57)。
大澤家は江戸初期から大久保村(富士見市大久保)の名主をつとめ、大澤さんは19代目の当主にあたる。

 建物は1871(明治四)年に大澤家の母屋として建築。
木造平屋で約85坪、当時の民家としては、かなり大きい。
名主の家として格式高い特徴が数多く残され、幕府の役人を迎えるためだけに使われた「式台(しきだい)」と呼ばれる専用の玄関などは一般の古民家には見られない。
この式台は普段は閉じられ、たとえ当主であっても出入りは許されなかったという。
他にも違い棚や繊細な建具のある奥座敷、かまどのある台所、厩(うまや)など、当時の名主の暮らしぶりを知ることができるものばかり。

 難波田城公園の北西約2キロの大澤さん宅にはこの母屋よりも古い江戸期に建てられた長屋門、穀蔵が現存。特に長屋門は1866(慶応二)年の武州一揆の際に付けられたとされる刃物傷が残っており、歴史を刻む貴重な建造物として今に伝えられている。

 難波田城公園は午前9時から午後6時まで開園。問い合わせは、富士見市立難波田城資料館(TEL049・253・4664)へ。

脚折雨乞(すねおりあまごい) <鶴ヶ島

2008年7月31日(木)、埼玉新聞を抜粋編集
 
 「雨降れたんじゃく、ここにかかれ黒雲」―。
長さ三十六メートル、重さ三トンの龍神が約三百人の男たちに担がれ街中を練り歩く。
江戸時代からの伝統行事で、四年に一度のオリンピックの年に合わせて行われるようになってから、今年で三十二年目。

 約四十メートルにつないだ竹三本に、長さ二・五メートルの竹を約一メートル間隔で交差させて骨格を作る。その上に麦わら約六百束を載せて龍の体を完成させる。
今月二十六日、地元白髭神社に自治会員ら約二百四十人が集合。

 脚折地区では日照りの際、雷電池(かんだちがいけ)の畔にある雷電社で雨乞いをすると、雨が降った。
しかし、江戸時代の寛永(一六二四~四四年)のころ、雷電池を縮めて田んぼにしたため、池に棲んでいた大蛇が上州板倉(群馬県板倉町)の雷電池に移ったとされ、これが原因で雨乞いをしても雨が降らなくなったという。

 その後、村人らが知恵を絞って板倉の池から水を竹筒に入れて持ち帰り、雷電池に注ぎ、竹と麦わらなどで作った巨大な大蛇を担いで雨乞いを行ったところ、快晴の空がたちまち曇りだし、恵の雨が降ったとされる。

 この行事は一九六四(昭和三十九)年を最後にいったん途絶えた。
しかし、雨乞いの文化的価値と地域の一体感を取り戻そうと、地元住民らが七五年に「脚折雨乞行事保存会」を結成。
翌七六年に十二年ぶりに復活させた。
三年前、国選択無形民俗文化財に指定されている。