2009年12月29日火曜日

権現堂堤 幸手市<この街に生きる

権現堂堤 幸手市<この街に生きる
2009年11月11日 読売新聞を抜粋編集

幸手市北部を流れ、一部が茨城県との境界をなす中川。この川にかかる行幸橋から下流の南岸沿いに、約1キロにわたり続いているのが、権現堂堤(ごんげんどうつつみ)だ。春には約1000本の桜が咲き誇る桜並木があることから「桜堤」とも称され、県内有数の観光スポットとして知られる。

保存会や市によると、堤は、1576年、度重なる権現堂川の氾濫(はんらん)を防ぐために北条氏が築いたのが始まりという。だが、江戸から明治にかけ、幾度となく決壊。このため大正から昭和初期に、権現堂川の上流部と下流部の2か所が水門で閉め切られた。

堤には、風光明媚(めいび)な憩いの場としてだけでなく、江戸時代に「権現堂河岸」という舟運の拠点を備えて活況を呈した歴史もある。河岸から江戸へ年貢米などが送られる一方、江戸の珍しい品々や日用品が運び込まれ、幸手宿の発展にもつながった。

2009年12月28日月曜日

埼玉県民意識:県民意識は薄く東京を隣で支える

【埼玉県】 県民意識は薄く首都東京を隣で支える
12月21日 Diamond Onlineを抜粋編集

「埼玉都民」という、言い得て妙な言葉がある。実際の話、埼玉県内に住んで就職・就学している391万人のうち28.8%、約3分の1は県外(ほとんどは東京)に通っているのだ。

 だが、埼玉には豊かな自然がまだふんだんにあるのもまた事実だ。秩父多摩甲斐国立公園をはじめ、県内には大規模な自然公園がほかに10ヵ所もある。そうしたところにやってきてリフレッシュしているのは東京都民のはずだ。また、県の北部はほとんど農業地帯で、首都圏に最も多くの農産物を供給している。
気質は保守的でおとなしい

 ただ、かつてはほとんど全域が農地で、大半が農作業に従事していたことから、気質は保守的でおとなしい。江戸時代、社会的な地位の高い武士の生活を支えていたのは実質的には農民だったが、その暮らし向きはけっして恵まれていなかった。それと似たような構図が、埼玉─東京の間にあるような気がしてならない。

 そんな埼玉県民が、「埼玉がなければ、東京などひと晩で吹っ飛んじゃいますよね」という言葉を聞けば溜飲が下がるだろうし、疲れも吹き飛び仕事への活力もわいてくるのは間違いなさそうである。

埼玉県:観光サイトでアニメのカルトクイズ 

埼玉県:観光サイトでアニメのカルトクイズ 
2009年12月25日 毎日新聞を抜粋編集

 埼玉県は24日、「らき☆すた」など同県に関連するアニメやマンガ、特撮番組をテーマにしたクイズを楽しめる「アニメで埼玉観光クイズラリー」を、同県の公式観光サイト「ちょこたび埼玉」で始めた。全問正解すると抽選でアニメにちなんだ商品が当たる。1月31日まで。

 アニメ「らき☆すた」による町おこしで話題を集めた鷲宮町や、春日部市を舞台にしたマンガ「クレヨンしんちゃん」など、アニメやマンガに関連した地域が多いため企画された。サイトでは、「鷲宮神社入り口の大酉茶屋のレギュラーメニューにないのは?」「幸手市の美水かがみさんのギャラリーで、玄関のすぐ右手にあるのは誰の部屋?」など、アニメやマンガにちなんだマニアックなクイズが出題され、正解するとアクセス方法や周辺地域の観光情報も表示される。

2009年12月27日日曜日

幸手宿 幸手市<この街に生きる

幸手宿 幸手市<この街に生きる
2009年11月4日 読売新聞を抜粋編集

東武日光線幸手駅から南東に約350メートル行ったところに、志手橋(しでばし)という橋がある。ここから旧日光街道を北上し、聖福寺(しょうふくじ)付近に至る区間が、かつて幸手宿と呼ばれた宿場町だ。志手橋から南西約750メートルには、日光御成街道との合流点もあり、江戸時代には県内有数の宿場町としてにぎわったという。

幸手宿の南玄関・志手橋を渡ると、右手にひっそりとたたずむ旧家がある。宿場町の面影を今に伝える貴重な建物として、今年9月、国の文化審議会が有形文化財に登録するよう文部科学相に答申した「岸本家住宅主屋(しゅおく)」だ。かつてしょうゆ醸造業を営み、主屋の裏手には醸造所や作業場、蔵など約10棟が立ち並んだ。

歴史を生かした街づくりに思いを寄せるのは、旅館「あさよろず」の6代目主人、新井和博さん(59)も同じだ。館内には、伊藤博文や板垣退助の宿泊を記した当時の宿札や、「朝萬(あさよろず)」と書かれた創業間もない頃の看板を掲げ、宿場町の雰囲気を醸し出す。

徐々に新たなファンを集めつつあるのが、幸手宿北端に位置する聖福寺だ。近年、歴史を学ぶ観光客らがたびたび訪れるようになった。

同寺は江戸時代、歴代の将軍が日光社参をするたび、行き帰りで将軍の休憩所に使われた。今でも将軍専用の山門や位牌(いはい)などが残る。

2009年12月26日土曜日

街の恋人 輝き再び 上尾市 <この街に生きる

街の恋人 輝き再び 上尾市 <この街に生きる
2008年12月20日 読売新聞を抜粋編集

明治政府発足から10年あまり、生糸を横浜港に運ぶため、上野駅からJR高崎線が群馬県高崎まで開通したのは1884年6月。その前年、熊谷までの仮営業の際に開設した六つの駅の一つが上尾駅だ。1969年、東口のみだった駅舎にようやく西口が出来た。アポロ11号が月面着陸し、東名高速道路が全線開通、実質12%の経済成長率に国民が沸いた年のこと。上尾市谷津や柏座地区に団地などが造成され、前年より人口が1万3489人も増えた。駅は都内へ通う人たちでにぎわいを見せる。

この年に当時としては珍しい、ショッピングセンター(SC)「上尾モンシェリー」が西口に開業した。複数の小売店舗が集まった斬新なスタイル。アイデアを出したのは、脱サラした起業家や駅東口の商店主ら20人たちだった。

さらなる活性化に向け、メンバーたちの話し合いも熱を帯びた。気持ち良く買い物をしてもらおうと、可動式のアーケードを設けた。アメリカ西海岸へ足を運び、上尾で生かせるような先進地の取り組みがないかを探った。馬車を運行したり、女性のダンサーを招いたハワイアンショーを手がけたり。ちびっ子のど自慢やミニSLの運行も企画した。アイドル歌手のステージショーを催した。出すアイデアがことごとくヒットした。

しかし、良いことばかりは続かない。1980年代を境に、街は「混迷期」を迎える。本格的な車社会の到来。消費者は一度に多様な買い物を楽しもうと利便性を追求するようになった。郊外に大型店が続々と現れ、逆風にさらされた2社が倒産し、街を去った。その後、売れ行きが伸びず、近くにオープンした大型商業施設内へ移転する仲間も現れた。

モンシェリーが産声を上げて今年で40周年。若い経営者たちが街の未来を切り開こうとしている。

2009年12月25日金曜日

県内撮影4年前の倍 フィルムコミッション活況

県内撮影4年前の倍 フィルムコミッション活況
 2009年12月24日(木)

  映画やドラマなどの撮影を支援するフィルムコミッション(FC)を行う公的団体が県内で増加している。2005年度末までは県や本庄市など4団体だったが、3年半で全国最多の18団体(09年8月現在)に急増。撮影件数も05年度の2倍を超える勢いで伸びており、県民になじみの県内各地の風景がテレビやスクリーンに映し出される機会が増えた。

 FC設立は主に三つの地域効果が期待できる。一つはまちのPRによる集客効果だ。今年4~9月に放映されたNHKドラマ「つばさ」の舞台となった小江戸・川越は、蔵造りの街並みや菓子屋横町といった地域のシンボルの露出度が高まり、観光客が増加。

 もう一つは撮影隊の受け入れなどに伴う経済効果。撮影隊はロケ中の飲み物や弁当は地元で注文する。ロケセット建築費を含めた経済波及効果は大きい。

 三つ目はまちおこし効果だ。普段見過ごしがちな身の回りの風景が映像で取り上げられることで、地域住民が地元を再認識するきっかけになる。またエキストラや撮影支援に住民がボランティアで参加することはまちの活性化にもつながる。

 映像制作会社の関係者に聞くと、景気低迷による制作費圧縮の流れの中で埼玉はロケ地として魅力的という。「都内から日帰り可能で出演者と調整が付けやすい。日常の風景を撮るのに適した場所がたくさんあるし、都市から農村、山間の風景まで多彩なシーンが1日で撮れる」と指摘する。 

リピーター確保が課題 朝ドラ「つばさ」効果 川越市

リピーター確保が課題 朝ドラ「つばさ」効果
 2009年12月24日(木)

 蔵造りの街並みが残る川越市を舞台にしたNHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「つばさ」が今年3月から9月まで放映された。そのかいあってか、放映期間中の観光客は急増。メーン通り「一番街」の商店主らは「例年の3、4割増の売り上げ」とホクホク顔だ。ただ、関係者らは「これはあくまでもつばさ効果。今後の課題はリピーターをどう確 保していくか」と模索を続けている。

 「お客が全国から来るようになったね。昨年までは関東が中心だったが、今年は北海道 や九州の人が見えた。例年なら、客数が落ちる夏場も減らなかった。さすがは全国区だね」―。ドラマで老舗和菓子屋のロケ現場となった一番街の陶器店「陶舗やまわ」の原知之社長(53)は、つばさ効果をこう振り返る。

 朝ドラの放映が決まった昨年、川越市は市商工会議所をはじめ商店街連合会など地元関係団体で組織する「つばさ推進協議会」を設立。職員の名刺に「つばさ」のロゴマークを入れたり、街路灯に統一フラッグを掲げるなど、ドラマのバックアップ態勢を整備した。

 放映開始後も、老舗の酒蔵「鏡山酒造」跡地を利用して、ドラマで使用した和菓子屋のスタジオセットなどを再現したり、出演者が使用した道具やサイン色紙などを展示した「つばさ展」を開催。さらに、10月には同跡地の敷地に東京芸大大学院生が制作したモニュメント「つばさ記念碑」を設置した。

 視聴率は関東で平均13・8%と朝ドラ史上最低だったものの、地元のPR作戦が奏効したためか、観光客は放映開始直後をきっかけにぐんぐん伸びた。蔵造りの街並みの一番街に面する「川越まつり会館」と「蔵造り資料館」の放映期間中の入場者数は昨年同期比36%増。市は「実数は分からないが、間違いなく観光客は増えている」と胸を張った。

 ただ、関係者は「観光客は来年以降、減るだろう」と口をそろえる。

 リピーターの確保策について、同市観光課は「ドラマのロケ地誘致や長瀞などの県内観光ルートの商品化などを視野に入れながら、観光資源を洗い出し、サービスや情報提供の質を上げるなど、観光地としての付加価値を高めていきたい」と新たな試みに動きだしている。

2009年12月24日木曜日

遍照院 上尾市 <この街に生きる

遍照院 上尾市 <この街に生きる
2008年12月13日 読売新聞を抜粋編集

「上(かみ)寺」と呼ばれる遍照院(上町)で近隣の人など約1000人が集まって伽藍(がらん)の落慶法要が執り行われたのは10月13日。

2005年の着工から丸3年。ほぼ100年ぶりの大工事で、老朽化した建物はきれいに整備された。

風景が変わったのは1962年ごろ。JR高崎線を越える踏切と直線で結ぶ市道が整備され、参道に沿って住宅が立ち並んだ。参道は細い路地を残すのみ。その後、中山道から遍照院は見えなくなった。

2000年、老朽化による雨漏りが激しくなった本堂の調査が実施される。その結果、「大きな地震が起きたら倒壊の恐れがある」。翌年、護持世話人会が遍照 院建立記念事業委員会を組織し、本堂や客殿などの新築整備に乗り出した。これを機に、本堂と山門の位置をずらし、市道と山門、本堂を直線に結ぼうとの声が あがる。かつての景色を取り戻そうというわけだ。

2009年12月23日水曜日

氷川鍬神社 上尾市 <この街に生きる

氷川鍬神社 上尾市 <この街に生きる
2008年12月9日 読売新聞を抜粋編集

石の灯籠(とうろう)を横目に鳥居をくぐり、参道を進む。数十メートルも歩くと、立派な本殿が目に入る。370年以上、上尾の街を見守ってきた氷川鍬(くわ)神社。

1631年(寛永8年)12月25日。「鍬」の字を染め抜いた着物姿の童子(わらべ)3人が上尾宿に現れた。踊りを踊って、突然姿を消す。残されたのは金の幣束(へいそく)と2本の鍬、そして稲穂。「神の使い」だとうわさされ、神社が出来た。

1788年、江戸で学僧として名高い雲室上人を招き、公立学校と寺子屋の機能を併せ持つ教育機関「聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)」が開かれた。ここで多くの青年が孝経や近思録などを学んだ。

長い時を経て、学びへの意欲が復活する。2002年、上尾商工会議所は人材育成を目的に「上尾未来大学 聚正義塾」を始めた。受講生は、作家や企業経営者 の講義を聞いた後、意見を交わす。08年度までに修了生は延べ200人を超えた。商工会議所総務渉外委員長の星野理一さん(51)は「自発的に行動する リーダーとなり、地域活性化の担い手に」と願う。

2009年12月22日火曜日

上尾宿 上尾市 <この街に生きる

上尾宿 上尾市 <この街に生きる
2008年12月6日 読売新聞を抜粋編集

JR上尾駅の東口のバスターミナルを抜け、ほぼ南北に走る県道、かつての中山道を右に曲がる。右手の大きなビルの影に小さな木立が見える。ひょいとのぞく と奥に鎮座するのは氷川鍬(くわ)神社。中山道六十九次の五つ目の宿場、上尾宿の鎮守として「お鍬様」と呼ばれている。

上尾宿、今の上尾市仲町あたりは、江戸・日本橋から約10里。1泊目の宿を探す人のために41軒の旅籠(はたご)が並び、旅をする人たちでにぎわっていた。大名や旗本が泊まる大きな本陣と、それに準ずる3軒の脇本陣もあった。

中山道を挟んだ向かいに、宿場町の当時の面影を目にすることが出来る。

中国や日本に伝わる鍾馗は邪気を払う魔除けとして屋根の上に載せられた。江戸期以降、幾度かの大火を経験した上尾宿でもあちこちの屋根で見ることが出来たという。
上尾宿

2009年12月21日月曜日

うどんの街 所沢市<この街に生きる

うどんの街 所沢市<この街に生きる
2009年10月27日 読売新聞を抜粋編集

「手打うどん」――所沢市内の住宅街を歩いていると、あちこちで、こんなのれんや看板に出くわす。市観光協会作製のマップに掲載されているだけで、29店舗が市内各地に店を構える。

所沢はかつて、水利に恵まれず、小麦やイモが多く作られてきた。この小麦を使った手打ちうどんが家庭でよく食べられ、今も盆や正月、結婚披露宴といった特別な日に振る舞う地域がある。

やや茶色がかったコシの強いめんを、季節の野菜をさっとゆでた「かて」と一緒に、つけ汁につけて食べるのが所沢流だ。

市内の手打ちうどん店とは一線を画し、県内を中心に関東一円で「山田うどん」チェーンを展開する山田食品産業も、発展の礎を、今も本社を置く所沢で築いた。

会長の山田裕通さん(74)は、「所沢でうどんに適した小麦の生産が盛んだったので、昭和34年(1959年)、現在の本社所在地(同市上安松)に本格的 な製粉工場を建てた」と語る。創業後は、製めん所、店舗も設け、一貫した生産・販売体制を整えていった。「今思えば若気の至り。大きな工場を建ててしま い、その償却を図ることに夢中だった」と振り返る。

2009年12月20日日曜日

三富新田 所沢市<この街に生きる

三富新田 所沢市<この街に生きる
2009年10月20日 読売新聞を抜粋編集

所沢市の米軍所沢通信基地から住宅地を抜け、北東方向に車を走らせると、細長い短冊状の畑が無数に並んだ景観が目に飛び込んでくる。それぞれの “短冊”の端には、木造家屋がどっしりと構える屋敷地、反対側の端にはこんもりとした平地林がある。この広大な一帯が、江戸時代に開発された新田集落の姿 を今に残す「三富新田(さんとめしんでん)」だ。

三富新田は、上富、中富、下富の3地区の総称。三富を「さんとみ」と読む人もいる。元禄7年(1694年)に川越藩主となった柳沢吉保の命で、約1000ヘクタールの原野をもとに開拓された。現在、上富は隣接する三芳町、残り2地区は所沢市に属する。

中富、下富地区では、収穫量県内一を誇る所沢特産のさといもの収穫・出荷が本格化する。

地元農家46人からなる同会は、収穫したさといもなどを持ち寄って審査する会合を毎年秋に実施。県川越農林振興センターの協力を得ながら、上位入賞者の畑を翌年、研究して参考にしたりして、栽培技術の向上を図ってきた。

近年、都市近郊の緑として平地林が注目を集めているが、「林が残ったのも、農業が続いてきたからこそだ」と栗原さん。「農業を続けるためには、必要な変化もある」とし、望ましい営農環境作りの模索を続けている。

三富新田ウィキペディア

2009年12月19日土曜日

狭山湖 所沢市<この街に生きる

狭山湖 所沢市<この街に生きる
2009年10月6日 読売新聞を抜粋編集

都心から約40キロ。東京、埼玉の両都県にまたがり、「緑の島」とも呼ばれる狭山丘陵の所沢市側に広がるのが、狭山湖(山口貯水池)だ。隣の多摩湖(村山貯水池)と同様、戦前に造られた人造湖で、都民の水がめとしての役割を担っている。

狭山湖が完成したのは1934年(昭和9年)。工事では、所沢市街地へ流れる柳瀬川の上流部をせき止めることになり、282戸、1700人余りが現在の同市山口地区などに移住した。

狭山湖【地図】
狭山湖(=山口貯水池)ウィキペディア

2009年12月18日金曜日

銀座通り 所沢市<この街に生きる

銀座通り 所沢市<この街に生きる
2009年9月29日 読売新聞を抜粋編集

 所沢駅西口を出て、北へ。「プロぺ通り」「ファルマン通り」と、日本の航空発祥の地にちなんだ名の商店街を抜け、坂道を下ると、道沿いに高層マンションが次々と現れる。かつての所沢の中心街「銀座通り」だ。

 所沢は江戸時代、鎌倉街道と江戸への街道が交わった交通の要衝だった。宿場や、周辺の産物が市(いち)に集まる地域経済の中心として発展。明治にかけては綿織物「所沢飛白(かすり)」の一大集散地となった。今の「銀座通り」を中心に、「見世蔵(みせぐら)」と呼ばれる蔵造りの商家が軒を連ねた。

 今では都市化が進み、通りの風情も一変した。だが、地元では、わずかに残る蔵造りなどを生かしながら、歴史を伝えていこうという試みが始まっている。

 「蔵造りから高層マンションが並ぶ通りに変わったが、広くなった歩道をうまく利用するなど、出来ることはあるはず。街の歴史に関心が高まることで、住民同士の出会いが生まれ、地域の輪が広がれば」。そんな期待を胸に、三上さんはきょうも街の語り部を続けている。

2009年12月17日木曜日

航空発祥の地 所沢市<この街に生きる

航空発祥の地 所沢市<この街に生きる
2009年9月22日 読売新聞を抜粋編集

 所沢航空記念公園と周辺一帯は、終戦時まで、旧日本陸軍の所沢飛行場だった。

 同飛行場は1911年(明治44年)4月、日本初の飛行場として開設された。敷地面積は当初、約76ヘクタール。滞空記録への挑戦や、航空技術開発、操縦士の養成など、始まったばかりの日本航空界をリードした。

 古典機が飛び回り、滞空記録の更新などを競っていた所沢飛行場に変革をもたらしたのは、航空先進国・フランスから1919年(大正8年)に招かれた、フォール大佐を中心とする約50人の航空教官団。最新の操縦法や発動機の扱い方、整備方法などを、日本の軍人らに教えたのだ。

 最大約365ヘクタール、今の中新井地区まで広がっていた所沢飛行場は、終戦で米軍に接収された。

 2011年は、所沢飛行場開設から100年の節目となる。

2009年12月16日水曜日

箭弓稲荷神社 東松山市 <この街に生きる

箭弓稲荷神社 東松山市 <この街に生きる
(2009年5月12日 読売新聞を抜粋編集

 東松山駅西口から、南西に50メートルほど歩くと、高さ約8メートルの鳥居が視界に飛び込んでくる。その下をくぐり石畳の道を抜けると、地元では「やきゅうさま」と親しまれている箭弓(やきゅう)稲荷神社にたどり着く。

 社記によると、箭弓稲荷神社は712年(和銅5年)の創建。当時は、「野久」や「矢久稲荷」と呼ばれていたという。約300年後の平安時代中期、下総国(千葉、茨城両県の一部)で城主・平忠常が謀反を起こし、朝廷は追討の任に源頼信(968~1048年)をあたらせた。頼信は野久が原に本陣を張り、近くに神をまつる古いほこらを発見、野久はすなわち箭弓(矢弓)に通じ、武門の神であるとして祈願したところ、頼信軍が戦に勝利。帰陣した頼信は社殿を再建し、以後、社名を箭弓稲荷と呼ぶようになったと言われる。

 こうした歴史的背景から、戦前・戦中を通じ、同神社には戦勝祈願に訪れる参拝者が多かった。

 近年の参拝を巡るキーワードは「野球」だ。語呂合わせから、小中高の選手から埼玉西武ライオンズのプロまで、毎年、祈願申し込みがある。県立滑川総合高校出身の阪神・久保田智之投手、楽天の野村克也監督らは常連の参拝客としても知られている。

2009年12月14日月曜日

小説「天の園」記念碑 東松山<この街に生きる

小説「天の園」記念碑 東松山<この街に生きる
2009年4月21日 読売新聞を抜粋編集

 東松山市の、唐子地区は今も清流・都幾(とき)川や田んぼが広がる自然豊かな地域だ。その中心部、唐子中央公園の一角にある石の記念碑には、こんな言葉が刻まれている。

 <景色でおなかのくちくなる(=おなかいっぱいになる)ような子どもに育てます>

 幼少期をこの地で過ごした作家・打木村治(うちきむらじ、1904~1990年)が書いた児童文学小説「天(てん)の園(その)」(72年)の中で、主人公「河北(かわきた)保」の母が述べた言葉だ。

 「天の園」は明治後期から大正期、打木が小学校時代まで過ごした唐子村を舞台に書かれた全6部の長編小説で、「河北保」は小学校時代の打木がモデル。川で魚を取ったり泳いだりし、野山を駆ける子どもたちと、その成長を優しく見守る大人たちの様子が生き生きと描かれている。

 作中には「代官屋敷」と呼ばれる家が登場する。そこでよく遊んだという松本礼子さん(64)は、「それはもう大きな家で、皆で走り回ったものです。もっと早く小説が出ていれば、市が保存していたはず」と残念がる。

 「日本人の忘れたものが全部入っている」。数年前にこの地区に移り住んだ室田朱実さん(53)も、「天の園」にほれ込んだ。新座市で小学校教師を務める傍ら、東大や埼玉大で教育の実践論を教えていたが、偶然訪れた唐子地区の美しい風景に魅了され、そこで出合った「天の園」を教育に生かそうと、教師を早期退職して移住。昨年から小説の世界を広め、残す活動を始めた。地区内で古民家を改装し作った丸太小屋で、今年から「雲の大学」と題し、2か月に1度、小説から様々なことを学ぼうとサロンを開く。

 「人と人とのふれあい、自然の大切さ。この小説が広まれば、教育や子育てがもっと良くなっていく」。室田さんはそう信じている。

2009年12月13日日曜日

世界企業ボッシュ 東松山市 <この街に生きる

世界企業ボッシュ
2009年4月7日 読売新聞を抜粋編集

世界大手のドイツの自動車部品メーカー「ボッシュ」の存在は、東松山市にとって大きい。敷地面積は16万3000平方メートルで、東京ドーム3・5個分。戦後の企業城下町としての市の発展を支え続け、産業が多様化した今でも、法人市民税収入の3割強を同社で占めている。

 前身のヂーゼル機器は、1939年(昭和14年)、ディーゼルエンジンに着目した旧日本陸軍の意向を踏まえ、誕生した。社長に就任した織田秀明さん(60)は、「工場建設の候補地はほかにもあったが、松山町の町長が『質実剛健の武蔵武士がそろっております』と提出した陳情書が効いたようです」と話す。

 旧陸軍は戦車用にディーゼルエンジンを必要としたが、技術的に高度で国産化が難しかったため、同盟関係にあったドイツのボッシュに頼っていた。そこで国産化を図ろうと、旧陸軍の意向を受け、創立されたのがヂーゼル機器だった。

 同社は軍需に頼っていたため、終戦直後、ほぼすべての社員が一度退職することに。しかし、自動車産業が復活の兆しを見せ始め、ヂーゼル機器もカーエアコンなどの製造に転じて業績を伸ばし始めると、60年に1000人程度だった社員は、高度経済成長に伴い、66年には5000人を超えた。地域行政にも貢献しようと、労働組合から東松山市議会に議員を2~3人送り出すようにもなった。

 ヂーゼル機器は、分割や合併を繰り返し、05年、ボッシュグループの日本法人「ボッシュ」となった。環境分野などで先端技術を開発し続け、世界で従業員27万人、売上高460億ユーロ(約6兆3000億円)の巨大グループの一員だ。

2009年12月10日木曜日

正法寺(しょうぼうじ)岩殿(いわどの)観音 東松山 <この街に生きる

正法寺(しょうぼうじ)岩殿(いわどの)観音
2009年3月24日 読売新聞を抜粋編集

 高坂駅西口の改札を抜けると、眼前に小高い丘陵地帯が広がる。この丘の上にあるのが、坂東三十三か所の十番札所、正法寺(しょうぼうじ)だ。三方を丘陵の急斜面に囲まれ、霊験あらたかな雰囲気を醸し出す。境内の奥に観音堂があり、地元では「岩殿(いわどの)観音」の名で親しまれている。

菊池雄星投手、初の埼玉入り

菊池雄星投手、初の埼玉入り
 2009年12月9日(水) 埼玉新聞を抜粋編集

 プロ野球の埼玉西武ライオンズに新入団する超高校級左腕、岩手・花巻東高の菊池雄星投手(18)が8日、所沢市の西武ドームや若獅子寮などの施設を見学。菊池投手は夢舞台となるグラウンドに足を踏み入れ、決意を新たにしていた。

 菊池投手は「緑が多く、街もきれい。もう少し都会かなと思っていたが、岩手と似ていて山に囲まれているし、野球に専念できる素晴らしい環境」と笑顔で印象を語った。

2009年12月8日火曜日

丸木美術館 東松山 <この街に生きる

丸木美術館 東松山 <この街に生きる
2009年3月10日 読売新聞を抜粋編集

 東松山市南部を東西に流れる都幾(とき)川。この清流を背にした下唐子の小高い丘に「原爆の図 丸木美術館」が立つ。雑木林に囲まれ、鳥のさえずりも聞こえる自然豊かな地だ。今から約40年前、画家の丸木位里(いり)、俊(とし)夫妻が、ここにアトリエ兼住居を構え、作品を通じて反戦平和を訴え続けた。

 位里さんは1995年に94歳で、俊さんは2000年に87歳で亡くなったが、美術館の運営は、67年の開館翌年に発足した財団法人が担っている。約30年間、財団の理事を務めていた元東松山市教育長の田口弘さん(86)は「両先生は、自然に囲まれたこの場所を愛していた。だから地域に奉仕したいと、公共施設に作品も寄贈してくれた。どれも平和を訴えたもので、2人の意思は、この地で引き継がれています」と話す。

 位里さんは1901年、広島県飯室村(現広島市安佐北区)で生まれた。独学で日本画を学び、前衛的な画風を確立。41年に北海道秩父別町出身の洋画家・俊さんと結婚した。

 夫妻は45年8月6日、原爆が投下された直後の広島に入り、約1か月間、被災者の救援に携わった。このときに見た惨状を「原爆の図」(全15部。1部は縦1・8メートル×横7・2メートル)として、約30年間にわたって共同制作を続けた。

 夫妻が東松山市に移り住んだのは66年。翌年、自宅隣に美術館を開いた。度重なる増築を経て、現在は約1200平方メートルの展示面積に、「原爆の図」第1~14部など、計約100点を展示している。

やきとりの街 東松山 <この街に生きる

やきとりの街 東松山 <この街に生きる
2009年3月3日 読売新聞を抜粋編集

 東松山市は、市内の「焼き鳥店」が70店近いという「やきとりの街」だ。2005年の市の独自調査によると、同市は焼き鳥で知られる全国の都市のうち、人口1万人当たりの「焼き鳥店」数が7・2店で「日本一」だとか。

 東松山名物の「やきとり」は、鶏肉ではなく、豚のカシラ肉(ほおとこめかみ部分)を使う。つまり「焼きトン(豚)」だ。

 1961年、黒瀬さんは在日朝鮮人の夫と、屋台をトラックに乗せ、大手自動車部品工場の立地でにぎわう東松山市に移り住み、「大松屋」を始めた。

 近くに食肉センターがあり、当時、食用にはあまり使われないカシラ肉が新鮮、安価で仕入れることができたため、ホルモンから次第にカシラ肉を使うように。故郷・韓国の味を懐かしんだ裴さんが、白みそに唐辛子やニンニク、ゴマ油、みりんなどを調合した辛いみそだれを考案し、カシラ肉に付けて食べるスタイルを確立した。その後、周辺の焼き鳥店もこれにならい、各店独自のみそだれを作り上げ、今では「東松山のやきとり」に欠かせないものとなった。

2009年12月5日土曜日

松山陣屋 東松山 <この街に生きる

松山陣屋 東松山 <この街に生きる
2009年2月24日 読売新聞を抜粋編集

 東武東上線・東松山駅の東口から、飲食店が並ぶ「ぼたん通り」、百貨店・丸広が面する「丸広通り」と、北へ10分ほど歩くと、交差点の一角に東松山市役所がある。その庁舎と通りに挟まれるように、高さ約2メートルの石碑がぽつんと立っていた。正面には、「前橋藩 松山陣屋跡」の文字。

 15回近く移封を命じられ、「引っ越し大名」の異名を取った川越藩主の松平直克(なおかつ)が、松平家が約100年過ごした川越藩から前橋藩(現在の前橋市)に移ったのは幕末の1867年(慶応3年)。その際、残された飛び地約6万2000石を統治するため、いわば役所の出張所として設けたのが松山陣屋だった。だが、5年足らずで廃藩置県を迎え、その役割を終えた。

 「松山陣屋は江戸時代、国内最大規模にして最後の陣屋。土塁、空堀なども備え、前橋城の支城といってもいいほどでした」

 陣屋の敷地は、現在の市役所、松山第一小学校の一部を含む総面積約8万7500平方メートル。約260人の藩士が働き、南側の外陣屋には藩士屋敷など約40棟を構えた。八幡神社付近には鉄砲の練習場もあった。日光裏街道の宿場町でもあった松山は、近郊の農民と合わせ約1600人が住み、ずいぶんにぎわったようだ。

 石川光男さんは、陣屋内の多くの屋敷の玄関が北向きで不便だった、と説明する。「松平のお殿様がいる前橋が東松山から見て北の方角で、『足を向けてはいけない』との理由でそういう造りになったと聞いています」。

 松平家の子孫は、しばしば松山陣屋の跡地を訪れることがあった。

 松山陣屋のあった松山町は、1954年の「昭和の大合併」で周辺の高坂、野本、唐子、大岡の4村と合併し、東松山市となった。

史料で知る近代化 県文書館で企画展

史料で知る近代化 県文書館で企画展
 2009年12月4日(金) 埼玉新聞を抜粋編集

 埼玉初の鉄道開通や秩父事件など、明治初年から終戦直後まで約80年間にわたる県内の出来事を記録した「埼玉県行政文書」が6日まで、さいたま市浦和区の県立文書館で公開されている。展示文書約90点のうち約70点は今年7月、国重要文化財に指定。近代化の波に乗り変容を遂げてきた地域基盤や、人々の暮らしぶりを伝えている。

 秩父事件(1884年)で秩父困民党を率いた田代栄助の裁判言渡書や、日露戦争(1904~05年)の戦没碑を建立する際の許認可書など、歴史事件の影響を示す数多くの史料が見られる。

 地域社会の近代化を象徴する「鉄道」も、展示テーマの一つ。埼玉最初の鉄道開通は1883年、上野―熊谷間の日本鉄道第1区線(現JR高崎線)。2年後に第2区線(現JR宇都宮線)が開通し、分岐点となった大宮周辺が鉄道の町として発展していく様子が文書からうかがえる。

2009年12月4日金曜日

水戸家の付家老の地、飯能を散策 歴史ツーリング

水戸家の付家老の地、飯能を散策 歴史ツーリング
 2009年12月3日(木) 埼玉新聞を抜粋編集

「第7回比企・入間歴史ツーリング」では、「水戸黄門の生みの親」とされる水戸家の付家老(つけがろう)中山信吉(のぶよし)の墓を飯能に訪ねた。

 付家老は、徳川家康が自らの側近5人を御三家の中枢に就けたことから始まった。幕末まで続いたが、飯能の中山氏は古来・高麗氏を祖とした家柄で、信吉は小姓として家康に仕えた。家康の十一男「御三家」の一つとなった水戸徳川家の藩祖水戸頼房(よりふさ)の付家老となった信吉は、家光から後継選びを命じられ、頼房の子供たちと面会、6歳の次男・長丸(光圀)の聡明さに感服し、後継に推挙した。後の名君・水戸黄門誕生の逸話だ。

 中山氏は、丹党(血族で結ばれた武士団)の高麗五郎経家を祖とする。

 飯能の智観寺に眠る関東随一の大きさの中山信吉の墓所を訪問。智観寺に墓参りに来た茨城県高萩市の草間吉夫市長と境内で、偶然に鉢合わせした。

 水戸家の地元茨城から現在でも付家老に墓参りに来たことを知って一同びっくり。草間市長は「尾張の成瀬家や紀伊の安藤家など、付家老の5家由来の地から5市長が集まった徳川御三家付家老サミットを実施しました。御三家の家老5家由来の5市では、大規模災害応援の協定も結びました」と話した。

 また、幕末、上野・寛永寺の彰義隊から分かれた振武軍が、中山氏由来の飯能で官軍と衝突した「飯能戦争」で、振武軍本営となった能仁寺も訪ね、往時をしのんだ。