2009年12月5日土曜日

松山陣屋 東松山 <この街に生きる

松山陣屋 東松山 <この街に生きる
2009年2月24日 読売新聞を抜粋編集

 東武東上線・東松山駅の東口から、飲食店が並ぶ「ぼたん通り」、百貨店・丸広が面する「丸広通り」と、北へ10分ほど歩くと、交差点の一角に東松山市役所がある。その庁舎と通りに挟まれるように、高さ約2メートルの石碑がぽつんと立っていた。正面には、「前橋藩 松山陣屋跡」の文字。

 15回近く移封を命じられ、「引っ越し大名」の異名を取った川越藩主の松平直克(なおかつ)が、松平家が約100年過ごした川越藩から前橋藩(現在の前橋市)に移ったのは幕末の1867年(慶応3年)。その際、残された飛び地約6万2000石を統治するため、いわば役所の出張所として設けたのが松山陣屋だった。だが、5年足らずで廃藩置県を迎え、その役割を終えた。

 「松山陣屋は江戸時代、国内最大規模にして最後の陣屋。土塁、空堀なども備え、前橋城の支城といってもいいほどでした」

 陣屋の敷地は、現在の市役所、松山第一小学校の一部を含む総面積約8万7500平方メートル。約260人の藩士が働き、南側の外陣屋には藩士屋敷など約40棟を構えた。八幡神社付近には鉄砲の練習場もあった。日光裏街道の宿場町でもあった松山は、近郊の農民と合わせ約1600人が住み、ずいぶんにぎわったようだ。

 石川光男さんは、陣屋内の多くの屋敷の玄関が北向きで不便だった、と説明する。「松平のお殿様がいる前橋が東松山から見て北の方角で、『足を向けてはいけない』との理由でそういう造りになったと聞いています」。

 松平家の子孫は、しばしば松山陣屋の跡地を訪れることがあった。

 松山陣屋のあった松山町は、1954年の「昭和の大合併」で周辺の高坂、野本、唐子、大岡の4村と合併し、東松山市となった。