2008年9月24日 東京新聞を抜粋
<【名建築を訪ねる】
緑豊かな「カワセミ街道」沿いに、奈良時代創建と伝わる「高麗(こま)神社」がある。その境内に、どっしりとたたずむかやぶきの古民家。代々、神社の祀職(ししょく)を務めてきた高麗氏の旧宅だ。
大和朝廷は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)滅亡後(六六八年)に日本列島に渡った渡来人を、現在の埼玉県日高市や周辺一帯に集めて武蔵国高麗郡をつくった。高麗氏はその地を治めた高麗(こま)の王若光(こきしじゃっこう)の子孫。高麗神社には高麗郡の開拓と治世に力を尽くした若光が祭られている。
高麗家の家伝によると、住宅は江戸時代初期の慶長年間(一五九六-一六一五)に建てられたとされる。山を背にして立つ住宅は、入り母屋造りかやぶき屋根で、広さ約百二十二平方メートル。外壁には弓矢避(よ)けとされる木製格子が並ぶ。
屋内に足を踏み入れると、大黒柱がなく、何本もの細い柱が、ケヤキやマツの木などでできた梁(はり)を支えているのに気付く。異なった大きさの四部屋で構成している「古四間取(こよまど)り」という構造。江戸時代の典型的な民家は、大黒柱を中心に各部屋をほぼ同じ大きさに配置しているが、古四間取りはそれ以前に用いられた構造という。
四間はそれぞれ「表座敷」「奥座敷」「部屋」「勝手」と呼ばれる。
書院造りの「表座敷」は太い梁が縦横に走り、奥行きが十五センチしかない簡易な床の間の一種である押板がある。「奥座敷」には通常の床の間があり、客人用の別の一室とつながり一組になっている。「部屋」は土壁で覆われており、産所として使われていた。
住宅は一九五〇年代まで高麗家の人々が住居として使用していた。江戸時代以降、表座敷が寺子屋として利用され、土間が獅子舞のけいこ場となるなど、地域住民にも親しまれた。
住宅は建てられてから一度も移築されていない。近世初期の民家の遺構を残し宗教者の生活空間でもあるという理由から七一(昭和四十六)年に国の重要文化財に指定された。七六年から一年かけて解体修理し、当初の構造を復元した。
高麗家住宅の土間には、足踏み脱穀機や、背負い梯子(ばしご)など、昔懐かしい農機具が展示されている。前宮司が中学校教諭を務めていた1950-60年代、機械化が進み各地で使われなくなった道具を集め、入場者に農具の歴史を伝えようと置いた。